2002年日语一级真题
1 できる問題からさきにやる。
2 その件はさきの会議で決定した。
3 この仕事はさきが見えなくて不安だ。
4 わたしの車はこのさきの駐車場にとめてある。
問題Ⅶ 次の(1)から(5)の言葉の使い方として最も適当なものを、それぞれの1・2・3・4から一つ選びなさい。
(1) どうやら
1 このぶんではどうやらあすも雨らしい。
2 彼の考えがどうやらよくわからない。
3 心配しなくても、どうやらなるだろう。
4 どうやらしてお手伝いしたいと思っている。
(2) おろか
1 基本はおろか応用も大事だ。
2 わからない単語は、辞書を調べるもおろか質問しなさい。
3 腰をいためて、歩くことはおろか立つことも難しい。
4 祖父は80歳を過ぎているが、一年中水泳はおろか冬はスキーだ。
(3) 不満
1 うちの子どもは、親に不満ばかりしている。
2 店員の態度に不満して、何も買わずに店を出た。
3 そのときの佐藤さんの表情はいかにも不満だった。
4 今度の人事異動には不満がある。あまりに不公平だ。
(4) 中毒
1 彼はお酒に中毒だ。
2 ガス中毒で入院した。
3 公園の彫刻が雨の中毒で溶けてきた。
4 うちの子は、勉強に中毒して熱を出してしまった。
(5) 一見
1 彼が普通の人ではないことは一見だ。
2 オフィスに人がいるかどうか一見してください。
3 一見、あの人は日本人だとわかる。
4 彼女は一見おとなしそうだが、実はそうでもない。
問題Ⅰ 次の文章を読んで、後の問に答えなさい。答えは1・2・3・4から最も適当なものを一つ選びなさい。
世間では、いま、表現教育ということが盛んに叫ばれている。子供たちに、どうにかして、「豊かな表現力」「誰とでも話せるコミュニケーション能力」を身につけさせようと、親も教師も躍起になっている。子供の方から見れば、表現を強要されているとさえ言える状況だ。
だがどうも、教える側も、子供たちの方も、「表現」ということを無前提に考えすぎていまいか?
いや、いったい、何をそんなに伝えたいというのか?
私はここ数年、演劇のワークショップ(体験型の演劇教室)を、年間で百コマ以上、全国で繰り返して開催してきた。教育の門外漢に、このような依頼が殺到するのも、表現教育隆盛の一つの現れであろうか。
ただ、私が、そういった場で子供たちに感じ取ってもらいたいことは、表現の技術よりも、「他者と出会うことの難しさ」だった。どうすればコミュニケーション能力が高まるかではなく、自分の言葉は他者に通じないという痛切な経験を、まず第一にしてもらいたいと考えてきた。
高校演劇の指導などで全国を回っているといつも感じるのは、生徒創作の作品のそのいずれもが、自分の主張が他者に「伝わる」ということを前提として書かれている点だ。
私は、創作を志す若い世代に、演劇を創るということは、ラブレターを書くようなものだと説明する。「俺は、お前のことがこんなに好きなのに、おまえはどうして俺のことがわかってくれないんだ」という地点から、私たちの表現は出発する。分かり合えるのなら、ラブレターなんて書く必要はないではないか。
日本はもともと、流動性の低い社会の中で、「分かり合う文化」を形成してきた。誰もが知り合いで、同じような価値観を持っているのならば、お互いがお互いの気持ちを察知して、小さいな共同体がうまくやっていくための言葉が発達するのは当然のことだ。それは日本文化の特徴であり、それ自体は、卑下すべきことではない。
明治以降の近代化の過程も、価値観を多様化するというよりは、大きな国家目標に従って、価値観を一つにまとめる方向が重視され、教育も社会制度も、そのようにプログラミングされてきた。均質化した社会は、短期間での近代化には好条件だ。日本は明治の近代化と、戦後復興という二つの奇跡を成し遂げた。
しかし、私たちはすでに大きな国家目標を失い、個人はそれぞれの価値観で生き方を決定しなければならない時代に突入している。このような社会では、価値観を一つに統一することよりも、異なる価値観を、異なったままにしながら、その価値観を摺り合わせ、いかにうまく共同体を運営していくかが重要な課題となっている。
いま、あらゆる局面で、コミュニケーション能力が重視されるのは、ここに原因がある。「分かり合う文化」から、「説明し合う文化」への転換を図ろうということだろう。
だが、ここに一つの落とし穴がある。
表現とは、単なる技術のことではない。闇雲にスピーチの練習を繰り返しても、自分表現がうまくなるわけではない。
自己と他者とが決定的に異なっている。人は一人ひとり、異なる価値観を持ち、異なる生活習慣を持ち、異なる言葉を話しているということを、痛みを伴う形で記憶している者だけが、本当の表現の領域に踏み込めるのだ。
問1 「状況」とあるが、筆者は今どんな状況だと言っているか。
1 親や教師が子供に無理に表現させようとはしない状況
2 親や教師が子供に相互理解の重要性を教えようとしている状況
3 親や教師が子供にとにかく何かを表現させようとしている状況
4 親や教師が子供に表現することの
1 できる問題からさきにやる。
2 その件はさきの会議で決定した。
3 この仕事はさきが見えなくて不安だ。
4 わたしの車はこのさきの駐車場にとめてある。
問題Ⅶ 次の(1)から(5)の言葉の使い方として最も適当なものを、それぞれの1・2・3・4から一つ選びなさい。
(1) どうやら
1 このぶんではどうやらあすも雨らしい。
2 彼の考えがどうやらよくわからない。
3 心配しなくても、どうやらなるだろう。
4 どうやらしてお手伝いしたいと思っている。
(2) おろか
1 基本はおろか応用も大事だ。
2 わからない単語は、辞書を調べるもおろか質問しなさい。
3 腰をいためて、歩くことはおろか立つことも難しい。
4 祖父は80歳を過ぎているが、一年中水泳はおろか冬はスキーだ。
(3) 不満
1 うちの子どもは、親に不満ばかりしている。
2 店員の態度に不満して、何も買わずに店を出た。
3 そのときの佐藤さんの表情はいかにも不満だった。
4 今度の人事異動には不満がある。あまりに不公平だ。
(4) 中毒
1 彼はお酒に中毒だ。
2 ガス中毒で入院した。
3 公園の彫刻が雨の中毒で溶けてきた。
4 うちの子は、勉強に中毒して熱を出してしまった。
(5) 一見
1 彼が普通の人ではないことは一見だ。
2 オフィスに人がいるかどうか一見してください。
3 一見、あの人は日本人だとわかる。
4 彼女は一見おとなしそうだが、実はそうでもない。
問題Ⅰ 次の文章を読んで、後の問に答えなさい。答えは1・2・3・4から最も適当なものを一つ選びなさい。
世間では、いま、表現教育ということが盛んに叫ばれている。子供たちに、どうにかして、「豊かな表現力」「誰とでも話せるコミュニケーション能力」を身につけさせようと、親も教師も躍起になっている。子供の方から見れば、表現を強要されているとさえ言える状況だ。
だがどうも、教える側も、子供たちの方も、「表現」ということを無前提に考えすぎていまいか?
いや、いったい、何をそんなに伝えたいというのか?
私はここ数年、演劇のワークショップ(体験型の演劇教室)を、年間で百コマ以上、全国で繰り返して開催してきた。教育の門外漢に、このような依頼が殺到するのも、表現教育隆盛の一つの現れであろうか。
ただ、私が、そういった場で子供たちに感じ取ってもらいたいことは、表現の技術よりも、「他者と出会うことの難しさ」だった。どうすればコミュニケーション能力が高まるかではなく、自分の言葉は他者に通じないという痛切な経験を、まず第一にしてもらいたいと考えてきた。
高校演劇の指導などで全国を回っているといつも感じるのは、生徒創作の作品のそのいずれもが、自分の主張が他者に「伝わる」ということを前提として書かれている点だ。
私は、創作を志す若い世代に、演劇を創るということは、ラブレターを書くようなものだと説明する。「俺は、お前のことがこんなに好きなのに、おまえはどうして俺のことがわかってくれないんだ」という地点から、私たちの表現は出発する。分かり合えるのなら、ラブレターなんて書く必要はないではないか。
日本はもともと、流動性の低い社会の中で、「分かり合う文化」を形成してきた。誰もが知り合いで、同じような価値観を持っているのならば、お互いがお互いの気持ちを察知して、小さいな共同体がうまくやっていくための言葉が発達するのは当然のことだ。それは日本文化の特徴であり、それ自体は、卑下すべきことではない。
明治以降の近代化の過程も、価値観を多様化するというよりは、大きな国家目標に従って、価値観を一つにまとめる方向が重視され、教育も社会制度も、そのようにプログラミングされてきた。均質化した社会は、短期間での近代化には好条件だ。日本は明治の近代化と、戦後復興という二つの奇跡を成し遂げた。
しかし、私たちはすでに大きな国家目標を失い、個人はそれぞれの価値観で生き方を決定しなければならない時代に突入している。このような社会では、価値観を一つに統一することよりも、異なる価値観を、異なったままにしながら、その価値観を摺り合わせ、いかにうまく共同体を運営していくかが重要な課題となっている。
いま、あらゆる局面で、コミュニケーション能力が重視されるのは、ここに原因がある。「分かり合う文化」から、「説明し合う文化」への転換を図ろうということだろう。
だが、ここに一つの落とし穴がある。
表現とは、単なる技術のことではない。闇雲にスピーチの練習を繰り返しても、自分表現がうまくなるわけではない。
自己と他者とが決定的に異なっている。人は一人ひとり、異なる価値観を持ち、異なる生活習慣を持ち、異なる言葉を話しているということを、痛みを伴う形で記憶している者だけが、本当の表現の領域に踏み込めるのだ。
問1 「状況」とあるが、筆者は今どんな状況だと言っているか。
1 親や教師が子供に無理に表現させようとはしない状況
2 親や教師が子供に相互理解の重要性を教えようとしている状況
3 親や教師が子供にとにかく何かを表現させようとしている状況
4 親や教師が子供に表現することの